早稲田から北海道まで自転車で行こうとしたら地獄を見た話①
みなさん初めまして。わいないなです。
この記事を読む前に一言だけ聞いて貰いたい。
「野宿は本当にやめた方がいい。少なくとも寝袋がないなら」
きっかけはとある旅行サークルの夏合宿であった。
そのサークルの合宿の「モットー」として、現地集合現地解散があった。
すなわち、
現地の集合地と時間だけが言い渡され、そこまで各サークル員は自由にそこへ向かう訳である。
因みにこの時、集合は函館駅だった。
時間に余裕のない人は東京から新幹線や飛行機を駆使して現地へ直行する。逆に金銭に余裕のない人は青春18きっぷで途中の車窓を楽しみながらゆっくりと、しかし濃密な時間を過ごす。
そういった風土のサークルに私は忙しくてあまり参加できなかったものの、それに順応するようになっていた。そして、今思えば悪魔的な、いや、到底無謀な発想に至ってしまったのである。
「ぶっちゃけ時間さえあれば東京から北海道まで自転車で行けるんじゃね?」
本当に、この発想こそが全ての過ちであり、この冒険譚を生み出す根源であった。
さて、旅を始める準備をしよう(出発当日)
時は8月17日。相変わらず兼サーの鬼と化していた私は、夕方ごろ練習を終え北海道へ準備を進めていた。正直遅すぎる気がするがどうしようもなかった。まぁそんな人間だしな私。
(タイヤを外しカバーを掛けて手荷物のように持ち運ぶ状態にすること。この状態なら電車に持ち込むことも可能)するにしてもサイズが大きすぎて邪魔になるだろう。
新大久保の中古マーケットで折りたたみ自転車(15000円)を無事見つけ出し、この旅のパートナーとした。変速機能もあり山道でもスイスイ進めるほどの手軽さと折りたたみ機能に気に入った。
それでも前かごはあったほうがよかったなぁ… |
さて、北海道に向けて一路目指す訳であるがここで私は重大な事に気が付かないでいた。いや、気付いてはいたのだろうがどこか楽観視していたのだ。
3日後、すなわち8/20には函館にたどり着かなければならないのである。
青森を8/20の朝8時に出発するフェリーに乗るため、実質的にリミットは60時間という事になる。
(確かに、時速15kmであったとしても40時間ほど移動さえ出来れば青森にはたどり着ける。理論上は。)
しかし、私はその強烈な現実に対して「ゆーて行けるっしょ」とまるで前期試験直前と全く同じく余裕綽々に考えてしまっていたのである。
一体お前は度重なる試験から何を学んだのか、ガバガバスケジュール管理がここでも牙をむくこととなる。
異変は唐突に起こるが、それは必然である
はじめこそ快調であったのは事実だ。早稲田から30kmほど離れた越谷に1時間半もしないうちにたどり着いだ、表定速度20kmは折りたたみ自転車なら上々な方だ。
(この時はまだ楽だった。まだ…)
ボロは直ぐに出た。途中日帰り温泉に寄ったりしつつも快調なペースで国道4号を北上して行ったが、深夜1時を過ぎても未だ埼玉県すら脱出できない中、ある異変に気づいてしまった。
ケツが痛い。
マジで痛い。漕げない。
折り畳み自転車を買って直ぐ、イキってロードバイクと同じレベルにサドルを高くしていたのだが、今思えば特にスピードが上がったわけでもない。
ひたすらドMプレイを自分に強いていただけだった。ひたすらにアホである。
そうこうしているうちに、ついにケツの痛さと眠さと疲れが限界に達し、何度も歩道に入っては休憩を繰り返す始末。多分時速は1桁kmになってたと思います。
疲労とケツ痛の中、後悔を胸になんとか茨城県古河市を越え、栃木県小山市へ…。この時、すでに夜中の2時半を回っていた。
なお、時速15キロはおろか走行開始から6時間かけて移動した距離が80kmちょい。この時点でもはやこの計画は崩壊していたのである…
疲労は人を狂わせる。そして疲労をさらに呼ぶ
正直もうこれ以上走れない。休むしかない……
そうは思って駅の自由通路で寝ようとするも、安定の北関東クオリティ。
こんな時間までDQNが駅でお遊びになられている。到底安心して寝られる様子ではないため、渋々駅を後にして向かった先が……
市役所の入り口の石畳である。
ちょうど催しの看板(横に5mくらいある長いやつ)が陰になって外から見えにくいようになっているではないか。これは僥倖……
もちろんそんなはずはなかった。
8月後半、東日本を中心にそれまでの灼熱が嘘のように消え、寒波が出ていたのだ。この日の最低気温は16度。いやマジで寒かったです。
もちろんこんな無謀な旅をしている私が睡眠用の長袖などといった高尚なる装備を持っているはずもない。
強烈な寒さとどんどん熱を奪っていく汗に凍える中、通気性バツグンのスポーツウェアで無理矢理睡眠をとる羽目に。
結局1時間半しか寝られなかった。というか寒さとケツ痛でほとんど意識があったままでした。さようならぼくの人権。
目覚めの時は本当に辛かった。(大泉洋もきっとこんな寒さをドイツで味わってたんだろうな…)
何とかして這い上がるものの、想像を絶する寒さに身体が芯まで凍えてしまい自転車を漕ぐのは無理だと悟った私は吉野家に避難する事にした…が、吉野家も冷房ガンガン効いててそれはそれで辛かったです。
続きます。